瀬戸だより730号「『黄瀬戸』を読んだ」という話
- 2020.06.13 Saturday
- 15:08
以前からずっと読みたいと思っていた本がありました。加藤唐九郎著の「黄瀬戸」です。昭和8年に出版されたこの本は、その後多くの著作を残すことになる唐九郎氏の1冊目の著作になります。直接手にすることは今までありませんでしたが、この本の中で「陶祖・藤四郎」の存在を否定したことにより、当時の瀬戸の人たちの反感を買い焚書騒ぎまで起きたという話は知っていました(これがきっかけで唐九郎氏が瀬戸を離れ名古屋市守山区に移ることになる)。
たまたま今回1984年に講談社から復刻されたものを入手できました。内容はもとより、体裁も活字も変えることなく復刻されたものです。旧時代の活字は慣れるまでちょっと読みにくかったですね。
内容は「黄瀬戸」の変遷を時代と場所をたどりながら読み解いていくものになっています。これは加藤唐九郎自身による窯跡の発掘などのフィールドワークと大量の古文書の研究に裏打ちされた内容です。今となっては郷土史(焼物史)的には常識になっていることが多いのですが(これは唐九郎氏の研究の正しさを物語る)当時の定説とは異なる画期的(衝撃的?)なものだったはずです。
猿投周辺で焼かれ始めた施釉陶器が山伝いに瀬戸へ、そして美濃へと移動していくさまがフィールドワークの成果とともに活き活きと描かれています。当時の窖窯はその構造上、山の尾根や頂上付近に作られ、土や燃料が尽きると移動していく。施釉陶器の技術の広がりも山の尾根をまた同じように移動していきます。やがて国境を超え美濃に達し、窯の技術革新により山から里に降りてくる……それは黄瀬戸のスタイル(釉調)の変化を伴いながら移動していきます。氏が作家であると同時に優れた「研究家」であった事がよくわかります。
焚書騒ぎはこの本の内容に怒った瀬戸の人(一部の人であったようですが)によりおきました。瀬戸の人にとっては偉人であった陶祖・藤四郎の存在を否定し、いたとしても「山窩の親分」だったかもという書き方をしています。窯跡の陶片を調べていけば、陶祖の時代より前から施釉陶器は作られており、陶祖が中国から持ち帰って起きたであろう「技術革新」の展開がわからない、ということを考えれば、氏の説は正しいとは思います(山窩かはともかくにしろ)。
焚書騒ぎまでに発展したのはそれ相応の原因はあったと考えます。明治以降、特にこの昭和になる頃には瀬戸の陶磁器作りの流れが量産へと大きく変化していっています。唐九郎氏などの従来の焼物作りとは異なる価値観の生産(大量量産)が時代の中心になってきていたわけです。そのあたりのこともあるためか、結構この「黄瀬戸」の中でもトゲのある表現で当時の”工人”を批判している部分もあります。
また、輸出などを含めて伸びてきた瀬戸の陶磁器産業が世界恐慌のため、急ブレーキがかかった時代でもあります(大量の在庫を抱え、その処理と給料の支払いのため「せともの祭の廉売市」が始まったのもこの前年です)。人々のストレスや不満がこの本の内容に対して一気に吹き出したのかもしれません。
しかし、そもそもこの本は今で言う「大炎上」になりそうな表現を感じます……そりゃ、怒るだろうと。案外、唐九郎氏は古陶器の再興のため、注目を集めるためにあえてそこを狙ってそういう書き方をしたのかもしれませんね。
※アマゾンでも復刻版の古書は入手できるようです。