〜せとものの話をしませんか〜「瀬戸だより」保存版

瀬戸の陶磁器店・加藤兆之助商店が発行しているメールマガジン「瀬戸だより」の保存版です。瀬戸のこと、焼き物のことなど、毎週土曜日お届けしています。
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瀬戸だより730号「『黄瀬戸』を読んだ」という話
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     以前からずっと読みたいと思っていた本がありました。加藤唐九郎著の「黄瀬戸」です。昭和8年に出版されたこの本は、その後多くの著作を残すことになる唐九郎氏の1冊目の著作になります。直接手にすることは今までありませんでしたが、この本の中で「陶祖・藤四郎」の存在を否定したことにより、当時の瀬戸の人たちの反感を買い焚書騒ぎまで起きたという話は知っていました(これがきっかけで唐九郎氏が瀬戸を離れ名古屋市守山区に移ることになる)。

     たまたま今回1984年に講談社から復刻されたものを入手できました。内容はもとより、体裁も活字も変えることなく復刻されたものです。旧時代の活字は慣れるまでちょっと読みにくかったですね。

     

     

     内容は「黄瀬戸」の変遷を時代と場所をたどりながら読み解いていくものになっています。これは加藤唐九郎自身による窯跡の発掘などのフィールドワークと大量の古文書の研究に裏打ちされた内容です。今となっては郷土史(焼物史)的には常識になっていることが多いのですが(これは唐九郎氏の研究の正しさを物語る)当時の定説とは異なる画期的(衝撃的?)なものだったはずです。

     猿投周辺で焼かれ始めた施釉陶器が山伝いに瀬戸へ、そして美濃へと移動していくさまがフィールドワークの成果とともに活き活きと描かれています。当時の窖窯はその構造上、山の尾根や頂上付近に作られ、土や燃料が尽きると移動していく。施釉陶器の技術の広がりも山の尾根をまた同じように移動していきます。やがて国境を超え美濃に達し、窯の技術革新により山から里に降りてくる……それは黄瀬戸のスタイル(釉調)の変化を伴いながら移動していきます。氏が作家であると同時に優れた「研究家」であった事がよくわかります。

     

     焚書騒ぎはこの本の内容に怒った瀬戸の人(一部の人であったようですが)によりおきました。瀬戸の人にとっては偉人であった陶祖・藤四郎の存在を否定し、いたとしても「山窩の親分」だったかもという書き方をしています。窯跡の陶片を調べていけば、陶祖の時代より前から施釉陶器は作られており、陶祖が中国から持ち帰って起きたであろう「技術革新」の展開がわからない、ということを考えれば、氏の説は正しいとは思います(山窩かはともかくにしろ)。

     焚書騒ぎまでに発展したのはそれ相応の原因はあったと考えます。明治以降、特にこの昭和になる頃には瀬戸の陶磁器作りの流れが量産へと大きく変化していっています。唐九郎氏などの従来の焼物作りとは異なる価値観の生産(大量量産)が時代の中心になってきていたわけです。そのあたりのこともあるためか、結構この「黄瀬戸」の中でもトゲのある表現で当時の”工人”を批判している部分もあります。

     また、輸出などを含めて伸びてきた瀬戸の陶磁器産業が世界恐慌のため、急ブレーキがかかった時代でもあります(大量の在庫を抱え、その処理と給料の支払いのため「せともの祭の廉売市」が始まったのもこの前年です)。人々のストレスや不満がこの本の内容に対して一気に吹き出したのかもしれません。

     しかし、そもそもこの本は今で言う「大炎上」になりそうな表現を感じます……そりゃ、怒るだろうと。案外、唐九郎氏は古陶器の再興のため、注目を集めるためにあえてそこを狙ってそういう書き方をしたのかもしれませんね。

     

     ※アマゾンでも復刻版の古書は入手できるようです。

     

    | 歴史 | 15:08 | comments(0) | - |
    瀬戸だより720号「分炎柱」という話
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       まずはごめんなさい。毎週土曜日にお届けしている「瀬戸だより」、今回は日曜の配信になってしまいました。Facebookでも書きましたが、理由は「うっかり」です。すいません。

       

       先週、義父の工場の片付けを手伝いに行ったのですが、その際に古い窯(たぶん登り窯)から出てきたという「分炎柱(ぶんえんちゅう)」をいただきました。かつてはすり鉢を専門にする窯元でしたので、いろいろ古いものが出て来るので興味深いのです。

       

       「ぶんえん」と言えば、この4月から煙草の「分煙」が厳しくなりましたが、今回は「分炎」。煙じゃなくて炎。炎を分ける柱。今のガスや電気の窯にはありませんが薪窯には必要な柱でした。

       

       この「瀬戸だより」でも「穴窯」は何かと話には登場していますが、どんな窯かはあまり説明したこともなかったように思います。

       陶器の焼き始めたころは(土器の時代ですね)、作った器の周りで焚火をして焼いていました。まだ窯らしいものはなかった時代です。やがて周りを囲み上も蓋をして、トンネルの様な窯を使い始めます。それを熱がうまく行きわたるよう斜面に作っていったのが穴窯となります。もっと具体的な形を説明するなら「山の斜面に頭を下にした大きなツチノコ(幻のヘビね)を張り付けたような感じです(ネットで検索すれば穴窯の構造の図は出てくると思います。ツチノコってわかると思います)。そのツチノコの口の部分が焚口になります。頭の部分が燃焼室(薪の燃えるところ)、広がった胴体部分が焼成室(製品を焼くところ)、尻尾の部分が排煙道で煙の出口になります。熱が斜面を登りながら窯の中を抜けていくわけです。その薪が燃焼し、炎が焼成室に入っていくところ(ツチノコの首のあたりね)に置かれるのが分炎柱という柱です。大きさは窯の大きさにもよりますが、ペットボトルくらいのものを想像していただければ…まあそんな大きさの棒状の柱です。ここに炎が最初に当たり、左右に分かれて焼成室全体に効率よく熱が回っていくようになります。奈良時代ころに分炎柱は登場したようですが、効率よく高温で焼きあがるようになり陶器の質がぐんと高まりました。

       古い窯の分炎柱は何度も窯を焼くたびに高温と薪の灰を浴びてガラス質の独特な釉が厚く掛かった状態になります。古い薪窯の壁にも同様な灰被りを見ることが出来ますが、まさに製品を焼くだけでなく窯自体も焼かれてきたという証拠で、なかなか美しいものです。

       昭和の40年代ころまでは登り窯は現役でしたので、そのころまでが分炎柱の時代だってと思います。古い窯跡を見る機会があれば、低い位置にある焚口奥の分炎柱をぜひ探してみてください。

      | 歴史 | 14:52 | comments(0) | - |
      瀬戸だより717号「山茶碗」という話
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         皆さん、お元気ですか?土曜日です。

         瀬戸も、いえ全国的に自粛ムードが続いています。今月中は少なくともこんな感じなんでしょうね。

         

         瀬戸は日本で施釉陶器が初めて作りだされた土地というのはこの「瀬戸だより」でも何度か書いてきました(正確には瀬戸に隣接する猿投山あたりとなります)。陶祖・加藤藤四郎景正が中国から技術を伝えたというのが陶祖伝説。鎌倉時代ころの話です。中国では施釉磁器が作られており、日本の貴族はそれを所有することがステイタスであったわけで、それに近いもの(磁器でないにしろ)が瀬戸で作られ、人気となります。中国の高級品の写しであったわけです。

         ところが中国(宋)との貿易が盛んになると、「本物」が中国から多くもたらされるようになり瀬戸の施釉陶器の需要は減ってきます。その時、瀬戸は再び無釉の陶器も作り始めます。量産・実用を意識した「山茶碗」と呼ばれる茶碗です。

         

         私が初めてアルバイトをしたのは大学に入学する前の春休み、30数年前のちょうど今くらいの時期です。瀬戸では山で宅地や道路など開発工事が入ると古い窯跡が発見されて発掘調査することがしばしばあります。その発掘調査の仕事でした。決められたグリッド(範囲)を地層ごとにまっすぐ縦に掘り進む作業でした。そこで運よくモノが出てくると(全く出てこない場所もよくある)結構興奮したものです。そこで見たものが重なった山茶碗でした。

         シンプルな形です。小ぶりなご飯茶碗といった大きさ、丸味は少なく直線的なスタイル、高台も付けられずまっすぐ平らな底……というのが特徴です。しっかり高温で焼かれているものの、もちろん施釉はなく、大量生産のために作られていたのはよくわかります。無釉だから重ねて窯に大量に入れることも可能です。そもそも「山茶碗」という名前も後の時代になり、山の中の窯跡からやたらいっぱい出てくることからそう呼ばれたとも聞きます。

         素朴です。シンプルです。でも何か見ているとその時代の人々の(一般の)生活の息吹が感じらます。施釉の高級品だけでなく、量産のこうした製品も作っているというのが、とにかくいろいろな製品を幅広く作っていたその後の瀬戸の歴史のルーツを見るようです。

         

         春、この季節になると、私は山の中で出会った山茶碗を思い出すのです。

         

        | 歴史 | 14:57 | comments(0) | - |
        653号「門松代用紙届く」という話
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          門松代用紙

           


           クリスマス、年末に向けて冷え込みが厳しくなるようです。寒いです。
           今年も瀬戸市の広報誌に恒例の「門松代用紙」が折り込まれて届きました。「正月の飾り物作りなどで山の緑が損なわれないようにはじめた瀬戸市の伝統事業です」と広報に説明が添えられていますが、この「伝統」という意味は何なんでしょう?

           A4の紙を縦に二つにしたサイズ。賀正の文字の下、丸く赤い初日の大きく描かれ、その下には松竹梅、というめでたい絵柄です。これは自分たちの子どものころから変わっていません。どこまで時代をさかのぼれるかは不明ですがとにかくずっと昔から変わらないことは確かです。

           瀬戸の門松問題。これは歴史があります。
           江戸時代、世の中が安定してくると陶器の需要が高まり、それに応じるため瀬戸の窯業も飛躍的に伸びました。そのために必要な土と燃料の薪を確保するため、周辺の山々は一面のはげ山となってしまいました。結果、はげ山は山崩れや洪水などの災害を繰り返し起こすことになります。
           江戸期の早い段階から藩による山林保護は行われていました。その中で享保7年(1722年)には門松に真松の使用を禁止する「門松の制限」が命じられています。これは繰り返し出されていたようです。門松に使う松は若松であったり根付の苗のようなサイズのものが使われるので、せっかく根付き始めた松を根こそぎ採られてしまうことになります。
           この後、幕末から明治には再び管理が行き届かなくなりさらに山の荒廃が進むことになります。この山林の本格的な回復は明治半ば以降のホフマン工法による治山事業まで待つことになります。ホフマン工法は最低限の土の流出を防ぎ、あとは自然の回復に任せるという時間のかかるもの。その間も門松はもちろん様々な用途で木の伐採は制限され続けなければならなかったことは十分に想像できます。
           そのような状況を通して門松代用紙は生まれ、今も配布が続いているのでしょう。
           今は豊かな緑に囲まれる瀬戸ですが、その山々は徹底的な荒廃から再生されたものであることは忘れられがちです。特にその原因が陶磁器生産にあったということは私たちのような陶磁器を生業にしている者たちは常に心にとめるべきと思います。
           現代ではガスや電気が主で燃料として薪を必要とすることはあまりありません。ただ、土を採るために山を崩していることは変わりありません。自然を壊しつつ陶磁器を作っていること、先人の努力によりここまで瀬戸の山林が回復したことを忘れず感謝する意味でも、ある種の戒めとしても門松代用紙を正月の玄関先に掲げる意味はあると思います。そして、他の人たちにも瀬戸の山の荒廃と回復の歴史を伝えていく役割をこの一枚の紙は持つように思います。

          (2年ほど前にもこの門松代用紙の話を「瀬戸だより」に書いていて、繰り返しになりますが、瀬戸の自然を考える意味でもあらためて書きました。)

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